さて、前回は廻天の中学時代までを話を探ってみた。寵愛を受けることなく放置されながら育ってきた幼少期、今度は縛りに縛られトイレだけが自由時間となった小学・中学の青春。学校では人一倍勉強を頑張る、家でも勉強、帰る前には文武両方の習い事で心身へとへとの状態。母から言いつけられる言葉はいつも
『あんたは医者になるの。内科医、外科医、心療内科医、なんでもいいから大金持ちになって私を養いなさい。もう私にひもじい思いはさせないで頂戴。』
赤ん坊の頃抱き上げもしなかったくせに、大きくなり可能性ありと見込んだ瞬間に今度は過保護という暴力。廻天は現在も、これが逆だったらどれだけ良かったかと考える時があるそうだ。
本人曰く「赤ちゃんの時は記憶がないですからね…だったら、その時に暴力を振られ、物心付いてから放置された方が自分の手足も口も、全身を使って好きなことができたんですけどね。まぁ、ケガでそれすら叶わなくなっていたらなんとも言えませんが…」とのことである。
さて、いよいよ晴れて高校生、世間一般ならば恋人を作り友達を作り、一生涯を共にするような親友を作る者もいるだろう。しかしこの男はそう簡単ではなかった。一つ前のブログで明かした通り、母親は友達になる者すら将来の金づるにしか見ておらず、息子を恐怖で支配し媚びへつらわせ、その偽物の友達となった子の母親と、自分を繋げていく作業を行わせていた。
頭脳、力ともに抜群、完璧超人というあだ名まで付いた廻天ならば、まず母親相手勝てない訳はない。だが思いもよらぬ弱点はある。
それでも腹を痛めて生んでくれた母親だという事実。外科医に関する勉強をする最中、産婦人科系の書物に目が留まった。初めて妊娠が発覚してから腹が膨らみ出産するまでの時間と出産の痛み、辛さ、産後うつというものの存在を知る。今でこそ優しさの欠片もない、何をしたって当たり前という母親だが、自分が腹にいた期間だけはなんとか産みたいと思っていたに違いない。赤ん坊のうちに生命が終わっていなかったという事は、父親が無理やり産ませたのでなければ自分を産みたいという思いの表れなのだ。
そう信じるともう手をあげられない。逃走することもできない。そう、廻天は底抜けにやさしい。放置されたからこそ、父親という愛を早くから失っているからこそ、もう傍にある何かを失う恐怖を抱きたくなかった。殴られてもいい、刺されてもいい。だから一人だけは、孤独だけは。
赤ん坊の時に本能から実感したであろう「置いていかないで」という気持ちが募り積もって形となり高校生廻天に突き刺さったのかもしれない。何かに縋るしかなかったのかもしれない。
そんなこんなで、高校生活も全て縛られたまま終え大学生活へ。受験前から関係なく地獄を送っていたため、かなりハイレベルな大学へもすぐに受かった。努力なんてしていない。ただ死の淵を彷徨っただけのこと。合格しなければ精神的に殺される。肉体的にも五体満足とはいかないだろう。だから頑張った。無論医学部。
受験シーズンの時、母親に見つからぬように唯一隠し持っていた自由帳のあるページにはこんな文言が殴り書きで載っていたという。
「いきていていいのか、しあわせそうにわらっていいのか、すべてははおやのいいなり、これでいいのかなんてこともわたしにはわからない。でも、すこしはわらう、ほめられないけど、なにかよいことをもたらしたらすこしわらう。もとめてくれているのかも。もっと、ほめて、わたしをほめてほしい。あいしてほしい。さんたはしんじない、わがままもいわない。がんばっていいこにする。だからあいを、もっとあいじょうを、でなければいよいよわたしがあなたを_______(汚くて読めない)」
漢字など人の何倍も詳しいはずなのに、これを書いている時は一つも思い浮かばなかったのだ。さながら幼稚園児にも感じられる。少しでもやり場のない気持ちを発散できたからこそ、辛うじて爆発せずに済んだのだろう。
大学入学してすぐの春、母親が病に倒れた。本来ならすぐさま病院にかけつけなければならなかったが、何故か足が向かなかった。久しぶりの自由、監視されない、今は目がないと確実にそう思えた瞬間。何をする、どこで遊ぶということばかり考えていた。どこか支配から落ち着けて自由になれる場所…と辺りを調べていると、とある美術館が候補に挙がった。
そこには有名なひまわりの絵画が展示されているよう。確かひまわりの花言葉は「あなただけを見つめる」だったような気がするが、何故だかその時は自分がこの花に見つめられているような予感がしたため、心より先に体が美術館へと入っていた。3F展示室、足を踏み入れただけで夏風が香り、初めて来た場所だというのにするすると、真っすぐひまわりの方向に歩いた。
いざ作品をじ、っと眺めていると、哀愁、繊細さ、ゴッホの想いを一心に受け止めきれず一粒の涙がこぼれた。やはり勉強ができるだけあって予備知識も付いている、だからこその感動でもあるのだろう。絵画なんてまともに見てもいない、見てもそれは感想をどう言えば心象が良くなるか、誰かに後ろ指を差されないかという目的にしか使ってこなかった。だが今は思考を遮る母も意識を失っている。初めて何かを、何かの手段や色眼鏡無しで見た瞬間である。
生を受けた時からずっとこびりついていた価値観、先入観がさっぱり洗われたような…
しばらく鑑賞した後、母の意識が戻ったと病院から連絡があった。病状を聞いていた限り、己の知識的にはもう持たないだろうと推測していたのだが、医療従事者のそこはかとない頑張りが、あんな母親でも救ってくれた。善悪関係なく救う。
例えば、ある男が重病で倒れ病院を訪れた。だがその者を治療すると今いる病院が潰れてしまうという話になってしまっても救う。脳みそ一つでそんな状況どうとでもなると廻天は確信した。
この出来事を機に、母親に言われたからホイホイ目指すのではなく、自分も優しい心で誰でも完璧に救える医者になりたいという思いに至り、真摯に目指そうと決めた。ひまわりが、一旦己の心の疲れをリセットしてくれたからこそ辿り着いた発想。
まぁ、病状が良くなってすぐに監視は再開され、徹底的に絞られる日々が続いた。例え体調不良になっても大学を欠席したり勉強スケジュールをズラす事も許されず、単位はフル単、卒論も完璧、6年生の2月頃に受けた医師国家試験にも無事合格し、主席に近い成績での卒業。こう淡々と短めに説明してはいるが、本当に語ろうとすればその苦悩は1万字を遥かに超えるだろう。廻天の備わった才能でも、一般並の努力ならばまず医者など到底不可能であった。
医者になりたいという、ひまわりのおかげで得た夢と母親からの徹底的な、ほぼDV、ほぼ犯罪紛いの監視があったからこそ成し得た力業。
そこからは研修医として中央病院に勤務し、臨床研修、所謂研修医となり2年間ほど働いた。今まで資料等でしか見たことの無かった臓器、血液、体液飛び交う半ば戦場のような世界で、最初の方、何度か病院のトイレで戻してしまったこともあった。かっこいいだけで勤まる世界ではない、残酷で、汚くて、惨い所も受け入れて綺麗に治す仕事。そこの耐性も血の滲むような努力でなんとか会得したりと、2年間で精神的な部分が大いに成長していった。
しかも、そもそも手術の才がかなりある、伸びしろの塊であると教授陣から高い評価を得たではないか。まぁ、何割かは新たな医者を育成したいがために教授が使ったお世辞もあるだろうが、そう言われたのなら技能をより勉強しなくては…廻天は正式に医者になり、中央病院の外科医になった後も数年、武者修行のように腕を磨いた。論文など片手間、とにかく手術、手術、手術の連続、眠気が取れるように数時間仮眠は取るが、それ以外は手術に夢中。腕は十分ついたのだが…
ある朝起きたら意識は朦朧とし一瞬、自分がどこにいて何の仕事をしているのかという重要な記憶を飛ばしてしまった。無論数分で元に戻ったのだが流石に血の気が引いた廻天は、その日から二日間ほど休養させてもらうことにした。周りの医者も満場一致でそれを許可し、なんなら一週間ほど猶予を与えようかという話まで出たが、そこまで穴を開けられないと断固として拒否し、二日だけじっくり休むことになった。
まずは死んでも医者の自分を忘れぬよう、中央病院の事を調べ、全てを再確認する作業に勤しんだ。建物の住所、どんな形か、どこに何があるか、そもそもどういう病院なのか。作業を進めるうちに、ある一つの言葉に何か引っかかりを感じた。
「キュレーター…?」
確か、うちの病院では美術品の為に命を賭して戦う者の治療も請け負うし、美術館への就労が難しくなったら一時的に受け入れる取り組みをしていたはず、腕を付けるため孤軍奮闘していたあの時期にも、そういう患者は何人も見てきた。誰かの為、何かのために戦えるその勇気を称える言葉、絶対に治してまた戦地へ返り咲けるようにと技術やエールを何度となく送った。美術品…
ドク…
心臓が一度大きく高鳴った。そうだ、大学卒業前に見たあのひまわり、あれはしっかり守られているのだろうか。風化というものがその作品を蝕まないとは限らない。いやむしろ、歴史的学術的価値が高いからこそ狙われる恐れもまたあるというもの。
いても経ってもいられず部屋を飛び出しSOMPO美術館へと向かった。
向かった場所には、まだ確かにひまわりがあった、あの時のまま、寸分違わぬ位置に、オーラもそのままで鎮座していた。そこでふと、このひまわりが消滅する時の事を考えた。目を閉じ、鮮明に想像した。
全身の毛が逆立ち、なんとも言えない、吐き気がするような嫌悪感を覚える。絶対にそんな事は許さない、自分の人生を後押しし、感情を少しは出して決められるようにしてくれた、命の恩人といっても過言ではないこのひまわりが亡き物にされるなど…絶対にあってはならない。
自分が守るんだ。キュレーターと医者の両立など、小さい頃の地獄と比べたらなんだという。怖いのは痛みでも悲しみでも苦しみでもない、孤独だ。苦痛を味わおうが一人となる方が怖いに決まっている。そう己を奮い立たせ医者とキュレーター、二束の草鞋を履いて生活する決意を固める。だがそこに立ちはだかったのはやはり母親で、曰く「寿命よりも戦いで早めに死んだらどうするの、その後のお金は!?私の生活はどうなるのよ!!」と、この期に及んでまだまだ自分のことばかり。
歳をとるにつれ母親も病み、歯向かうなら死んでやるとか、誰か殺して肉親を犯罪者にするとか、支配を続けるための口実がエスカレートしていった。本当にそうさせる訳にもいかないので、医者をただ漫然と続けるしかないと思い休暇を終え、いつものように仕事をしていたら…
数か月後
『廻天さん!!』
同僚のとある医者が血相を変えて院内の廊下を走って近づいてきた。走ってはいけないと分かりやすく注意しようとした所、そういう場合じゃない!と逆に窘められてしまった。
「どういう事ですか?」
と訳を問うたところ
『か、廻天先生のお母様、が…風化に…』
ファサ…
手に持っていた資料を全て落としてしまった。母親が、風化にやられた?何故、どうして、感情が分からなくなった。泣いていいのか怒ればいいのかも分からずに。しばらく放心状態になった…その事を当時の医者に聞いてみると
『えぇ、、それはもう驚かれていました。ですが、放心状態になった後、急に資料を拾い出しては何か考え込んだような表情になりましてね。私が名前を呼んだら…』
過去の医者『あ、あの…廻天さん…?』
「ん?あぁ、はい。ご報告感謝いたします。では、次の手術もありますので」
そう言って資料を優しく持ちその場を去った。いつもの優し気な廻天小路のまま。
その時の気持ちは、本人も後になって理解したのだという。
本人に話を聞いてみたところ「そうですねぇ…多分、悲しみ1割、嬉しさ9割ですかね。やっと終わった、監視や妄言暴言暴力をされず、夢を絶たれる事もなく、ただ自分の、自分だけの人生が歩めるのかと。確かに孤独は嫌でしたが、その時にはある程度同僚の中に友人もおりましたし、ずっと学生時代のままではありませんからね…かなり気が楽になりました。キュレーターにもなれる!!って」だそうだ。
母親亡き後、本格的に外科医とキュレーターとなる為の準備を行った。事情を病院に話し手術等の件数を少し減らしてもらう、SOMPO美術館へ正式に所属させてもらいブロンズのキューレーターとしてひまわりとの契約を交わす。時間はかかったがようやくたどり着いた。
契約が済み能力を発動してみたところ、己の周りにはひまわり畑が広がった。大きく深呼吸をしたら、全身に脱力感、そして安心感。ひまわりだ、自分は救われたひまわりと共にあるんだ。叫びたくなるほど安心したと共に、ひまわりを、美術品を、そしてそれを愛する者たちの為に己も命を賭けなくてはならない。そう、何度も拳で胸を叩きながら言い聞かせる。
ただの医者くずれのキュレーターが守れるひまわりなど、どこにも存在しないのだから
そこからというもの、医者として最前線で活躍し多くの患者の命を救っていきながら、キュレーターとしての実力を高め、風化やユダ討伐の実績を重ねると、サポート役としての厚い信頼を複数のキュレーターから買われ、無事シルバーに上がる為の推薦を得る。
しっかりと医者になるまでの年数を考えると、実は廻天がシルバーに昇格したのはつい最近の出来事であるように伺える。
ざっくり時系列にまとめると
18歳高校卒業 24歳○○大学医学部卒業 26歳臨床研修を終え晴れて外科医に、そして武者修行に励む
28歳親がキュレーターに襲われそこからキューレーターの道も目指す。31歳キュレーターとしての実力が認められシルバーに昇格
味方に精神面の大きな安心感を与え、敵の戦意を優しく少し落とす。隙を狙ってゴッホを葬った拳銃で悪を絶つ外科医、廻天小路。
外科医としては技術的にはかなり上り詰めたがキュレーターとしてはまだまだひよっ子というのが自身の評価。そんな彼がこれから歩んでいく道は、ひまわりのような太陽サンサンなにっこり道なのか。
棘生い茂る、茨の道なのか。
完